< 天の邪鬼目線 > Part 1 例えば、ドヴォルザークの交響曲

はじめに
小学校の高学年の頃だったと思いますが、ある担任の先生が、授業の中でこんなことを言っていました。
「世の中のあらゆることに対して、真っ正直に信じるのではなくて、まずは疑ってかかりなさい」と、言葉は正確ではないが、内容的にはこんなことだったと記憶しています。
この教えが、妙に私の頭の中に残っていて、私はその教えに共感し、最終的に「その教えを忠実に守ってきた」とまではいきませんが、ある程度「道標」としてきた感はあります。
今の小学校教育では、こうした個人の信条を左右するような事柄を、生徒に教示することがあるのでしょうか。また、当時の教育方針にもあったのか、あるいは当該の先生が特別だったのか、それも判りません。
今になって思えば、件の先生には信念や独自のポリシーのようなものが、あったのだと思います。
何れにしても担任の先生には感謝しています。
そんなことから、私の「批判の精神」は自然と身についてしまい、現在に至っている訳です。「天の邪鬼」と似た用語に「へそ曲がり」や「旋毛が曲がっている」といった「言い回し」がありますが、「天の邪鬼」には「根っからの」というニュアンスが含まれていて、他の二つとは微妙な違いがあるようです。
そんな訳でこのシリーズでは、私の特技(?)である「天の邪鬼目線」で色々な事柄について、お話ししていきたいと考えています。
第一回目であるPart 1は「ドヴォルザークの交響曲」についてのお話です。
例えば、ドヴォルザークの交響曲。
ドヴォルザークは生涯に交響曲を9曲書いています。そのうち後半の7〜9番は後期の名曲と言われ、それ以前の曲よりも演奏の機会が多く、多くのクラシックファンに親しまれています。そして、その中でも第9番は、「新世界より」という表題もついていて特に有名です。指揮者なら、「一度は『新世界より』を指揮したい」というのが本音だと思います。
数多の指揮者がこの『新世界より』をコンサートで演奏、乃至はレコーディングしていることからも、そのことは頷けます。特に第2楽章は「家路」として、わが国では親しまれています。そして、ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』は、ベートーヴェンの第5番『運命』、シューベルトの『未完成』と並んで、クラシックファン以外でも誰でも知っている超有名な交響曲で、この3つは三大交響曲とも呼ばれています。
ですから、ドヴォルザークの交響曲のなかで、どれが一番好きかと問われたら、クラシック音楽ファンの9割方は第9番『新世界より』と答えるでしょう。それくらい親しまれていて『新世界交響曲』で通用します。この交響曲はドヴォルザークがアメリカ、ニューヨークに滞在中に完成しました。『新世界より』というタイトルも、彼自らが指示したものとされています。チェコ生まれのドヴォルザークにとって、当時のアメリカはまさに「新世界」だったのでしょう。
1893年、ドヴォルザーク51歳の時の作品で、彼の最後の交響曲になりますから、私のような音楽素人でも、彼の交響曲の完成形であることが分かるような充実した作品です。
ですから、この交響曲の後、弦楽四重奏曲やチェロ協奏曲など、いくつかの主要曲も作曲していますが、ある意味ドヴォルザークの集大成的な作品で、自信作だったと思います。

そんなドヴォルザークの交響曲の中で、私が一番好きな交響曲と言えば、第9番『新世界より』ではなくて第7番です。まさにこの点が、今回から始めるシリーズ「天の邪鬼目線」の第一回目に相応しい「小学校の教え、つまり人に同調しない」典型的事例と思い、決定しました。
冒頭で触れたように、私自身、物事をみんなと同じ視点で見れないと言うか、できるだけ「他者とは異なった視線で」ということに重きを置いていますから。
ドヴォルザークの交響曲第7番ニ短調のどこが好きなのか?
ドヴォルザークの後期の7〜9番の交響曲には、前述したように第9番ホ短調には『新世界より』、そして第8番ニ長調には『イギリス』という副題が付いています
ところが私が一番好きな第7番の交響曲には正式な副題はありません。私のおぼつかない記憶では、昔はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、第6番「田園」そして第9番「合唱付き」のように、副題がついた曲の方が、断然インパクトがあって有名でした。そう!第3番「英雄」交響曲もベートーヴェンにはありますね。これも例外ではなく有名です。
こうした副題をつける傾向は、他の作曲家にも当然言えることで、その点を意識して副題を付けていたケースもあったようです。例えば、私たちにお馴染みのクラシック音楽が、リアルタイムに作曲されていた18世紀、19世紀のころは、楽譜出版社によって宣伝を兼ねて付けられた副題もあったようです。現代のキャッチコピーと同じ役割、目的だったのでしょう。
さて、私が抱くドヴォルザークの交響曲第7番ニ短調の魅力についてですが、概ね5つの理由で纏めてみました。
- 第1〜6番までの交響曲に比べ、ドヴォルザーク色が強く出始める契機となった曲だから。
- 重厚でドラマチックな展開が、私が大好きなブラームス的で心地良いから。
- メロディーメーカーならではの、旋律が4楽章とも美しくて稀に見る楽曲だから。
- ニ短調の楽曲だから。
- 多くの人が、第9番『新世界より』をドヴォルザークの代表曲と思っているので、それへの反発から。
以上が主な理由です。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
によるドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調
先ずは1番目の項目から順にお話ししましょう。
<理由1> 第1〜6番までの交響曲に比べ、ドヴォルザーク色が強く出始める契機となった曲だから。
規模の小さい小曲の作曲に比べて、交響曲の作曲は作曲家にとっては大変な作業な訳です。その際、作曲家としての技量と経験が必要なことは、誰でも想像できると思います。第1〜6番までの交響曲はドヴォルザークが30代までに書かれた作品で、試行錯誤を重ねていますがドヴォルザーク的な特徴があまり見受けられません。こうした点が後々の演奏回数の少なさや、良い評価に繋がらなかった要因だと思います。しかしながら、かのチャイコフスキーでさえ、独自スタイルの交響曲を作曲できたのは第4番からで、第1〜3番までの作品は後半の3曲のシンフォニーと比較して、マイナー評価だったのですから、ドヴォルザークが劣っていた訳ではないのです。
<理由2> 重厚でドラマチックな展開が、私が大好きなブラームス的で心地良いから。

ブラームスには、交響曲をはじめオーケストラを交えたピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲など、有名な管弦楽の楽曲が多くあります。ところがクラシックファンの中には、彼の曲を大げさで堅苦しいと敬遠する人たちが、一部に存在するのは確かなようです。思うに、こうした嫌われる理由は、作品の内容、質というよりも、ブラームスの人間性に依るところが大きいと個人的には感じています。と言うのは、ブラームスは頑なで、無愛想で人付き合いが上手くなかったようです。そうしたことから、彼の作品にもこうしたレッテルが貼られてしまったと、私は分析しているのですが、真相は如何にです。

ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調
こう言ったブラームスの人間性を考えると、天の邪鬼な私にとってはブラームスは打って付けの作曲家だったことになります。
冗談はともかくとして、ブラームスの重厚なオーケストラの響きと、ドラマチックな展開は私好みで、若い頃から彼の音楽には勇気づけられ、惹きつけられて来たのです。
ドヴォルザークの交響曲第7番は、そんなブラームスの重厚感に加え、メリハリある展開と流麗な弦楽器の響きを存分に味わうことができる一曲です。この曲を初めて知ったのは、かなり昔のことになりますが、ズービン・メータ指揮のイスラエル・フィル演奏のLPレコードを買った時だと思います。
当時、指揮者ズービン・メータはドヴォルザークの第7番のチョッと前に、R・シュトラウスの交響詩「ツァラとストラはかく語りき」という、当時は珍しい大規模な曲をロサンゼルス・フィルハーモニーとリリースしていました。ところが、このアルバムが世界的大ヒットになり、一躍脚光を浴びることになります。
まさしく当時のメータは「飛ぶ鳥を堕とす勢い」の新進気鋭の若手指揮者だったのです。その「ツァラとストラはかく語りき」という曲自体が度肝を抜くような迫力で、その上にズービン・メータの劇的な演奏演出がプラスされてたのですから堪りません。
実は、この「ツァラとストラはかく語りき」の成功の勢いがそのままに、わたしの第7番への評価に、プラス効果があったことは否定できないと思います。
とは言っても、交響曲第7番に対する私の思いは変わることはありませんが。
ちなみに、交響曲第7番の4つの楽章で私が一番好きなのは、4楽章中一番短い第3楽章です。理由は曲の雰囲気と響きが、ブラームスのそれに一番近いと感じるからです。
ブラームスに見出され、世に出たドヴォルザークは、かつてブラームスがベートーヴェンを目指していたのと同様に、ブラームスの存在を手本にしていたのだと思います。
<理由3> メロディーメーカーならではの、旋律が4楽章とも美しくて稀に見る楽曲だから。
美しい旋律は、交響曲第7番に限らずドヴォルザークの楽曲には共通するものですが、4楽章すべてが美しいというのは極めて稀なことだと思います。
第一楽章冒頭からグイグイと引き込まれます。40分ほどの曲で、交響曲としては中規模の曲ですが、「アッ!」という間に終わってしまって、いつも名残惜しく感じています。美しい旋律があの大オーケストラ、特に弦楽器を中心に演奏された時の、あのゾクゾクっとした感じは「トリハダもの」です。聴くたびに痺れています。
私はクラシック音楽を小学生の頃から、自らの意思で聴いてきました。歴だけは長いのです。そんなことから、クラシック音楽の魅力は、極々単純に「旋律が美しいこと」が第一条件だと思っています。ですから正直なところ、近現代の作曲家の作品は、どちらかと言えば苦手な部類です。
通っていた小学校の放課後に、流れていたドヴォルザークの美しくて物悲しい「家路」は、私にとってのクラシック音楽の原点なのです。

<理由4> ニ短調の楽曲だから。
一般的に、長調の曲は明るく元気な曲調なのに対し、短調の曲は暗く重苦しい曲調になると言われています。
長調の代表的な曲といえば、誰でも知っている「ドレミの歌」です。それに対して短調の代表曲といえば、上述したベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」です。
私の場合、理屈はともかくとして短調の曲がなぜか好きだったとしか言えません。一つ考えられる理由としたら、思い当たるのは曲の好みがリズムやテンポといった要素よりも、私はメロディー重視だからだと思います。古今東西、美しい曲、名曲と言えば、やはり物悲しい曲(短調)が多いのもそうした点があるからでしょう。
勿論、ドヴォルザークの交響曲第7番がニ短調といことだけで、第9番『新世界より』よりも好きだということでは決してありません。それは第9番『新世界より』がホ短調で短調の曲ということからも明らかですが、あくまでも全曲を聴いて、その後に押し寄せてくる、読書で言えば読後感のような感触が、優劣をつける決め手になるのだと思います。
<理由5> 多くの人が、第9番『新世界より』をドヴォルザークの代表曲と思っているので、それへの反発から。
5番目については「言わずもがな」ですので、説明は省略します。
ただ、蛇足ながら付け加えておきたいのは、かのカラヤンはドヴォルザークの後半の交響曲第7〜9番のうち第7番だけ録音の記録がないとのことです。カラヤンがどうしてこの第7番を採り上げなかったのかは、わたしには分かりませんが、指揮者や演奏家には政治的な理由、信条的な理由、お国柄、或いは宗教などの理由から、特定の作曲家、曲目を避けるということはよくあるようです。
当然、芸術家であり有名人ですから、あからさまに「避ける理由」を公にすることはないでしょうが、自然と分かるものです。
余談ですが、マルタ・アルゲリッチがブラームスの協奏曲を演奏しないのは、興味深いところですが、勿論理由は分かりません。
と言った具合で、私のドヴォルザーク論(?)は終了しますが、最後に今回取り挙げた交響曲第7番の私なりのお勧め盤を紹介しておきます。
わたし独自の推薦盤
<その1>
ドヴォルザークがチェコの作曲家だからチェコの指揮者、オーケストラというのは、私のこれまで述べてきた主義主張とは相反するところですが、ヴァツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルの組合せは、どう見ても外せないところです。ト長調の第8番とカップリング。スラブの民族的情感に溢れた演奏として決定盤です。

ヴァツラフ・ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年
<その2>
意外なところで、ジョージ・セル指揮のクリーブランド管弦楽団の演奏は、昔から聴いていた一枚です。第7〜9番まで入っていてお得盤。
この投稿を書くまでは知らなかった事項ですが、なんと交響曲第7番ニ短調は、この盤がセル唯一のスタジオ録音とのこと。

ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団
録音:1960年3月
<その3>
ズービン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調
これは本文でも触れたように、私の個人的な理由からの推薦ですが、演奏はこの第7番が必要とする重厚さと流麗な演奏は、充分満たしていると言えるでしょう。
アルバムジャケットは(図1)を参照ください。
最後までお読み頂きありがとうございました。
from Leonardo